淡々と、かつ着々と。

やるせない26歳が綴るこれは独り言

友人との飲み会にて🍻

 久しぶりに高校の友人のジョッキを酌み交わした。

 

 その友人との飲むのは約2年ぶり2回目。

 

 当日は池袋に集合し、まずアルコールを胃にぶち込む前になんかよくわからんラーメンでお腹を満たした。アツアツのとんこつラーメンを食している最中になぜか友人から説教をされる。味に集中させて…

 しかし再開早々説教されるこの流れ、2年前と一緒で微笑ましく思った。

 その後2年前と同じ大手チェーン鳥貴族へ。

 

 席に着けば勝負開始。今と昔の話題を交錯させながら、お互いおしゃべりなので会話のキャッチボールを超えたドッチボール。

 

 しかし酒の進みと比例するように散逸していった話題は、ポテトフライを食べ終えるころには一つの話題に収束していった。

 

 「のろけ話」である。

 

 

 もちろん発信者は私ではなく相手。

 私は聞き役に徹し、じっくりジョッキを傾けながら根掘り葉掘り聞いていた。

 

 基本、のろけ話というのはすぐにお腹いっぱいになる。

 なぜなら大半が「自慢話」だからだ。

 他人の自慢話ほど花を枯らせたいと思う話題はない。

 

 

 さて、その友人はずーーーーーーーっと楽しそうにのろける。(いや、ほんと幸せそうに)酒は進む。

 

 その結果私はどんな気持ちになったのか。

 

 

 

 

 

 聞いている俺まで幸せな気持ちになってきたのである

 そしてふとこう思った

 

 

 「羨ましいな」

 

 

 

 

 彼氏がいる or 彼女がいる。

 この事実はある程度年齢を重ねていくと一つのステータスとして確立する。

 そしてパートナーにはかっこいい、可愛い、お金持ち…そんな身の程知らずなハイスペックな理想を望んでいる人も少なくはないだろう。

 まぁ自分の一番身近な存在になるわけだ。高い理想を求めることは間違っていない。

 捻くれ者私はそこに「羨ましがられたい」という願望が少なからずあるのではないかと思った。分かりやすい例をあげるとすれば

 ・二人きりの楽しい時間であるデートを、ありがたいことにSNSなどを通じて他人と共有してくれる親切な輩。

   ・付き合い始めたパートナーの優れたスペック(高級クラブで非日常を経験させてくれる的な)を執拗に(かつ遠回しに)自慢してくる輩とかである。

 私から見るとその人にとって彼氏彼女というのはアクセサリーの1つなのかなと思う。まるでブランドのように自分の価値を高める「者」であり「物」なのかなと。

 自分の価値を高めるには相対的な周りの評価が必要だ。だからこそ自ら発信して他人から「羨ましがられる」ことがそういう人たちのステータスなのかもしれない。

 

 

 

 しかしその友人はSNSを通じて自分から発信するような奴ではない。

 そして昨日の話のなかでパートナーの身なりやスペックについて自慢げに語ることもなかった。

 ただただ幸せそうな顔で「思い出話」をしていた。

 

 

 飲み会も終盤。話もようやく落ち着き、友人が呟くように言った。

 「パートナーとは一緒にいて楽」

 「一番幸せだと思う」

 その言葉に自慢や誇示などの疚しい気持ちは一切入っていない。素直なそこにある気持ちが言葉となって口から出ただけだろう。

 ほんといい顔で話すんだこれが。写真撮っておけばよかった。

 

 

 そんな他人からの羨望の柵の外にいる幸せなカップルの姿に、私はとても「嫉妬」してしまった。

 

 

 

 俺も幸せになるぞぉぉ!(書き疲れた)