人生におけるイベント
用意されたイベントをこなす学生時代
陽キャラの活躍っぷりに目を伏せたくなる体育祭も、柄じゃないのにとテンション上がっちゃった文化祭も、良くも悪くも忘れられない思い出(意味深)を作ってしまった修学旅行も、そしてただただ面倒だった避難訓練でさえ今振り返れば全てが「イベント」だった。
学校という恵まれた環境は基礎知識の提供だけではなく、10代という愚かなほど青く育つ私たちが単色の日々に染まらぬように様々なイベントごとを企画し、提供してくれていたんだなと今になってつくづく思う。
外を歩けば街灯の下で亡霊のように肩を揺らし彷徨っている大人を見かける。居酒屋に行けばビール片手に過去の自分を投影しながら死んだ目でジョッキを眺める大人を見かける。隣にいるおじさん団体は若さへの嫉妬があふれ出し「最近の若者は…」なんて減らず口で語りだしている。紡がれる若者への愚痴は大人社会への妥協正論に変わる。「これからは淡々と人生を歩んでいく」「そういうもの」「夢は見ないほうがいい」
ただ本当に申し訳ないのだが、私はその言葉を素直に受け入れる年頃ではない。
諦めで染まった人生をまるで「普遍的な大人の人生」のように雄弁と語る人がいるが、果たしてそうだろうか。何もせずに歳だけ積み重ねたこと自負し、迷える若者のために「現実」を教え諭すボランティアでもしてるつもりなのだろうか。献身的でご立派な活動家である。
そこから気づいたことは、今まで学校が用意してくれたイベントごとを社会は準備してくれないということである。強いて言えば、親族の死といった不可避な「負のイベント」が待っているくらいだ。無味乾燥な人生は日常に慣れ切った時に訪れるのだろう。
だからこそ、自分で行動を起こして「イベント」を人生に練り込む必要があると思った。いろいろな場所にいったり、好きなことしたり…心動かされるイベントを繰り返せば無色な人生にはなりようがない。(無職の可能性はあるけど)
特に「初めての経験」というのは多大な厚みを持った大イベントだと思う。
「初めての経験」は一歩を踏み出す勇気こそ必要だが、踏み込んでしまえば良し悪しは置いておいて、経験として、知識として、そして記憶として残る。きっと無駄じゃない一日を過ごすはずだ。
前置きが長くなりましたが、
ということで「一日一個新しいことをやってみようキャンペーン」を始めました。
早速今日は
「なんか地下にあって入りにくそうなタイ料理屋さんに行ってきました」
タイ料理レストラン オーキッド 池袋西口店
カオマンガイ(¥700くらい)サラダ、デザート付
前置きの割にはやってることが小せぇwww
と思ったでしょう。私もそう思う。
いつも通りに日高で飯を食べてたら一生行くことなかった店だっただろう。私はこのイベントを通じて「タイ料理の店を知っている人」にレベルアップしたのだ。
この前開催したオフ会でふと思った。
メンバーみんなが同じように入社した会社で悩み、同じようにツイッターで裏アカウントを作って、俺をフォローしてくれて、オフ会の呼びかけに反応してくれて…そんないくつもの偶然が繋がって実現したイベントだなと。
どこか一つが欠けても実現しなかっただろうし、お互いに充実した社会人生活を送っていたら一生出会うことなかった人たち。
今回のタイ料理店訪問も偶然イベントの一つだ。絶対に働いていたら一生来ることがなかっただろう。そんな些細で小さなイベントが人生を色付けていくんだ。
ワーホリ行くとか、公認会計士を目指すとか、そんなデカいイベントに踏み出すことができない。
だったらこの日常の殻を少しずつ破ってみようかなと思った。小さいことを1つずつ始める。「初めて」を沢山始める。そしたらなにか変わるかもしれない、なにも変わらないかもしれない。始めた結果どう転ぶかは神のみぞ知る。先が分からないから楽しいし、怖い。それが人生…(悟り
p.s.やっぱりタイ料理はおいしい