ある特別な休日の日のこと
ある特別な休日の日のこと
休日の地下鉄のホームは寂しさを感じるほど閑散としていた。
ホームドアに近く足音が響くホーム。会話さえためらう静寂は地下鉄に似合わない。もっと、そう、まさに闇の向こう側から近づいてきた音、耳をつんざくこの騒音こそ地下鉄にふさわしい。暖かい風と共に勢いよくなだれ込んできた都営日比谷線が唸りながらスピードを緩め、行儀良くNの前にドアを用意する。そしてため息を吐くような音をたてながらその扉を開けた。
スマートフォンを片手に乗り込んだNは、反射的に端の座席を探しだした。だが、“探す”必要はなかった。人よりも席が目立つ休日の日比谷線内はコロナの影響を実感するには十分な光景だった。
優先席に1番近い端の席に深く腰掛け、硬い壁に頭を預けてスマホをいじる。Yahoo乗り換えアプリの情報ではあと4駅。
向かう先は、人形町。
親子丼誕生の地『玉ひで』
行列の長さはまさに予想通りだった。
人形町駅から徒歩3分にある老舗『玉ひで』。親子丼誕生の店として有名で、その歴史を味わうため連日老若男女行列が絶えることはない。
Nは期待していた「コロナで騒いでいる今だったらあまり並ばずに食べられるのでは」その一見浅はかにも思える期待はみごとに的中した。日曜日のお昼時にも関わらず待ちは20人程度。この人数は並んでいないに等しい。
「うわ、結構値段いくね…」
手持ち無沙汰に玉ひでの公式ページを眺めていたSが小声で驚く。メインの親子丼は1番安くても1900円。平日のランチ時にも行列ができるらしいが、その列を成すスーツたちは羽振りのいい職場から飛んでくる烏骨鶏だろう。N達にとってはランチ1900円は特別な休日にしか味わうことができない価格だ。
「一流だからな。そりゃ一流の値段をとるに決まってる」
と、二流の説明をNはドヤ顔で言い放つ。しかしSはツッコミを入れることもなくスマホを覗いたままだった。
「私は“進化”でいいかなー、あ、味玉ほしいかも」
「進化?」
NはSのスマホを覗き込むと、お品書きページに載っている美味しそうな親子丼の写真と目が合った。食欲がそそられる黄金色にお腹が声を上げる。
そして、その下にはこう記されていた。
『進化〈再考〉〜Evolution2〜』
刹那、Nの思考と目の動きが止まり、そして"再考"する。
「は、なんだこの名前……」
Sは何も言わず細い指で画面を下にスクロールした。姿を見せる美味しそうな親子丼の写真、そしてまたその下には
『三昧〈推奨〉〜Recommend〜』
「かっこいい名前だよね」
苦笑いを誘うSにつられてNも口角を上げる。
妙な恥ずかしさ、そしてどこか懐かしさを覚えるセンス全開のネーミングセンス。これはオリンピック商戦の一環だろうかとNは真面目に考えるしかなかった。
⬇︎(ぜひ実際にその“勢い”を感じ取ってほしい。)
待つこと30分。
靴をおかみさんに預けて、専用窓口で注文する。
「えーと、進化の味付け卵付きと……」
視線で促すS。
「あ、ああ。ざ、三昧で」
Sが最初に注文してなければNはあのイケてるフルネームを唱えていたことだろう。Nは1人小っ恥ずかしさを抱えながら、案内されたお座席に腰を据えた。
「「おおー」」
何度見ても美しい。その輝きは、かのマルコポーロがたどり着いた黄金の国ジパングのごとく。煌々と広がる卵の海、海……それは生命の始まり…否、親子丼の始まりの場所
深さが浅めに作られたレンゲで米と一緒に持ち上げると、半熟の黄身がゆっくりと滑り降りた。匠の火加減によって再び生命を宿した黄身がレンゲから逃げる。
そしてここでは味について事細かに書くといった無粋なことはしない。
「「…美味しい」」で始まり、「「美味しかった…」」で終わった。
それだけで十分だろう。
入場料が必要な本屋“文喫”
お腹を満たした2人は、とある喫茶店で佇んでいた。
いつもの池袋の喫茶店でゆっくりするのも悪くないが、今日が特別な休日ならば行ったことがない喫茶店に行こうと、2人が向かったのは六本木にある喫茶店“文喫”。
ここを喫茶店というのは間違いかもしれない。ここは本屋さんだ。
入場料を必要とする本屋さん。入場料1800円(平日は1500円)を払えば、終日コーヒー&緑茶飲み放題の静かな環境で売り物の新刊本を嗜むことができる。けして安くない値段だが、この環境(と六本木という土地柄)を考えれば納得の価格だ。
Nは本棚に並んでいる新刊に目もくれず、カバンにしまってある自分の本を取り出した。長い間カバンの底に眠っていた文庫本。しおりが挟んであったページを読み返しても曖昧にしか覚えてなかったのでその章の最初から読み直す。こうしてゆっくり読書をする時間もめっきり減ったなとアイスコーヒーをすすりながらページをめくっていると、まぶたがだんだん重くなってきた。テーブルを挟んでNの前に座っているSはなんだか大きなサイズの写真集をペラペラと眺めている。その姿すらなんだか素敵な夢のように思えてきて、Nは目をつぶった。
「帰るか」
「そだね」
Nの読書スタイルは変わっている。Nは読書をする前に15分程度の仮眠を必要とする。元気だろうと疲れてようとカフェインを摂取してようと、まず本を読もうと開いた瞬間、強烈な眠気が襲ってくる。ここで無理してはいけないのだとN自身最近気づいた。仮眠なしで本に食らいつくと文字を読むことすらできなくなる。一度目を閉じることによって時間を忘れるほどの集中力を手に入れる。この不思議なルーティンのせいで「お客様……」と注意を受けることもあったが、ここ“文喫”では充実した15分を過ごすことができた。
日はすでに暮れ始めていた。
「あ、桜」
Sが指差す先で枝垂れ桜が揺れていた。「六本木にもあったんだ」「そりゃあるでしょ、日本なんだから」
意味ない会話を乗せた暖かな風が耳をかすめた。春はもう、すぐそこに。
2400字(1時間)
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