淡々と、かつ着々と。

やるせない26歳が綴るこれは独り言

どんな景色が残ったか

どんな景色が残ったか

1日の終わりには今日を振り返る。

その時、浮かんできた景色が今日私が生きた時間。

 

睡眠時間を6時間として、朝起きて夜寝るまで18時間は目を開けていることになる(瞬きがどーのとか言わないの)。だが18時間分の記憶全てを鮮明に思い出せるかといえば、絶対にできない。確かに過ごした時間のはずなのに、振り返った時に浮かんでくる景色は断片的でモノクロで味気ない記録が多い。そしてそれらは明日には消えている。

だが、たまに、ほんと極たまに色あせることがない景色が心に刻まれることがある。 

 

私は生まれてから24年経った。だが24年分の記憶はない。

きっと私は思い出分の日々しか生きていないのかもしれない。

そもそも年齢なんて人間が定めた数的基準だ。私たちは便宜的に規定された1年という単位の中で『誕生日』を迎えることで大人の階段を一段上がったような錯覚を起こす。だが、別に人間は誕生日を迎えることによって成長するわけではない。ノンストップで流れ続ける時間の中で、絶えず成長している。我々はその1秒という刹那的な時間とじっくり向き合うことができない。だから自分が”経っている”場所を知るために年齢という基準を便宜的に使用する。

『大切なのはどれだけ過ごしたかではなく、どう過ごしたか』

とローランドの名言を引用しつつ、

『そしてどんな景色が残ったか』

がこれから大切になってくることだと思う。

 

長いようで短いこの人生。

走馬燈をより鮮やかにするためにも、沢山の景色を見ながら生きていきたい。

 

カンボジア2日目に書いた手記より。

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