淡々と、かつ着々と。

やるせない26歳が綴るこれは独り言

だから僕は振り向かない

首筋に触れる風が冬の訪れを伝える。

ポケットから抜いた右手もまた同じように冬に触れる。塗装が剥げたファスナーを素早く首元まで閉めて、右手を元の位置に戻した。そしてまた何もせずに黄色いブロックの内側で立ち尽くす。

休日の運行間隔を把握してない僕は毎回こうして無駄な時間を費やしてしまう。待ち合わせに遅れないように早く出るべきと動いた朝は結局ここで立ち止まり、僕より遅く家を出たであろう人たちが街へ運ばれていく姿を眺めることになる。その都度、電光表示に目を向けるが決して到着時刻が早まっていることはなく、むしろ無断で遅れることが目立つのだが、時間通りを忠実に守ろうとするその几帳面さにため息が出る。

どこに視点を合わせるでもなくぼーっと空に顔を向けながら、ふとクリスマスに思いを馳せた。空をぼーっと見る、、、街並はいつもよりどこか嬉しそうだ。でも空の景色が暖かさを装飾されることはない。辞書通りの晴天をなぞるような青空に感謝しながら、無理に冬を演出しなくてもいいのになぁと恨み節を小さく吐きながら、首をダウンジャケットに縮こませる。

その時、柔らかな香りが僕の鼻をくすぐった。2年間クリーニングに出していない上着からではない。この恨めしい冷風にのって僕の元までやってきた、やわらかくてそっと包み込んでくれるような香りが。鼻の穴を限界まで広げながら、このみっともない顔を青空の下晒す僕はすでに香りの正体に気づいていた。

僕の後ろから衣擦れの音が、聞こえる。香りが届く。鼻の穴が広がる。そう、香りの発信源は後ろで僕と同じく寒空の下で時間通りに到着するであろう電車の到着を待っている人だ。人、この香りは女性であってほしいが、僕は青空と睨めっこをするのに忙しいので確認する暇がない。しかし何度もこういたずらに鼻をくすぐられていては僕も立場というものがある。ここで行動力なんてものがあったのならば、踵を軸にした重心が全くブレない180°の美しいターンをスマートにきめたのち、

「すみません、いい匂いさせるのやめてもらっていいですか」

と挨拶を交わしてもいいのだが、しかし残念ながら私の行動力は対人類、おのび対女性(と思われる有機物)を前にした途端、思想と思考だけが狂った機関車のように先走ってしまい一般的な27歳の肉体はそのシナプスに追従することができない。つまり、人見知りなのである。

わかっている。この香りは私に向けられたものではない。たまたま風下にいる私の元に、本来であればその香りの届け先であろうお方よりも先に配達されてしまった完全な誤送。返却できるならすぐにでも袋に詰めて返してあげたいが、ニコチンでクラクラになってるはずの僕の肺に喰われたが最後、二酸化炭素とヤニ臭に変換されて世に放たれる。申し訳なさで肺がいっぱいになってしまう僕をお許しください。

はて、こいつはなにをグダグダ言ってるのだ。キザなターンをしてキモいセリフを口にせんでもを適当に振り返り、その香りの正体を確認することは可能であろうと誰もが思ってるだろう。僕もそう思う。

しかし、僕は振り向かない。

この香りの正体を知りたい、香りに限らずきっとそんな些細な「知りたい」という気持ちが人と人をつなぐこともある。

僕は知りたい、この香りの正体を今すぐに知りたい。知る機会は今、ここにある。しかし僕は真実を知りたいわけではない。

僕が振り向かない限り、完璧なシルエットに縁取りされた空想的実像が僕と同じ方向に進む電車を待っている。その輪郭を丁寧になぞれば、次元すらも超越した存在を重ねることもできる。

ホームにアナウンスが響く。聞き慣れた電車の到着を伝える声とどこからか聞こえてくる遮断機の音、そこに重量を持った硬質な音が混じる。僕はまた首を縮こめる。瞬間、香りはどこかへ消えた。

僕を先頭にたくさんの足音が続く。1番近くで響く足音の間隔は小さい。だけど僕は振り向かない。ゆっくりと対面のドアまで進む。

車内ってこんなに臭かったかなぁと車窓に預けた頭にはさきほどの残香ひとつどころか、シルエットをなぞっていた記憶すら残っていない。

揺れる車体。片足に偏る重心。

僕は使い古したダウンジャケットのファスナーを勢いよく全開にして、流れる街の景色に目を落とした。

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