淡々と、かつ着々と。

やるせない26歳が綴るこれは独り言

意味のない写真が意味を持つとき

雲一つない青空と展望デッキから眺める街、背油が浮いたラーメンからソースが滴るフレンチまで。あの日見た感動をそのままの形で残したいとか、呼吸している景色を伝えたいとかなんとか言えばそれもそうなんだけど、やっぱりそれは建前でしかなくて本音を恥ずかし気もなく綴れば、ストーリーに載せて遠慮がちに期間限定で自慢したくなる、そんな抑えきれない顕示欲からシャッターを切ることが多かった私です。

現代病によって恣意的に編集加工された絶景を投稿し続けてきた私が、意味もない写真の意味に気づいたのはたぶん4年前くらいのことである。

 

スマホのアルバムを整理しようと人差し指を上下させていると一枚の写真が出てきた。それは完全にピントがずれている一枚の写真。カメラに目線を合わせず腑抜けた顔をしている友人の姿から、たぶん意図せずシャッターを切ったものと推測される。

一見、何の意味もない写真。本来、デリートされている写真。全然、面白くない写真。

でも、その写真からふつふつと湧き上がる懐かしさ。

友人の後ろに写る少しゴチャゴチャした部屋は昔よく遊びに行った友達宅のリビングルーム

ああ、こんなものが置いてあったな。カーテンあんな色だったな。ソファってこんなにぺちゃんこだったけ。ピザ美味しそうだな。そういやあいつこの服よく着てたな。あの漫画ハマったな。写真に写る全てが懐かしい。忘れていた思い出、いや思い出になるほどでもなかった日常がとても懐かしい。

アルバムを漁ると出てくる出てくる用途不明意味不明な写真たち。薄汚れた壁、ここは高校の体育館だ。白線が引かれたアスファルト、ここは近所の公園かな。制服が掛けられた自室、数学のワークは水色だったな。冷蔵庫に貼られた買い物リスト、もんじゃにハマってたころのやつ。被写体不在の田舎の駐車場、じいちゃんの車がスバルのころだ。空のジョッキで溢れるテーブル、かこつけてピアニッシモ吸ってた時期あったあった……。

 

私たちは思い出を大切にする。集合写真や自撮り、レンズ越しに目が合った大切な人の笑顔。意図して切り取ったシーンは全て”思い出”として頭の中にも保存されていることだろう。その記憶は見返すたびに熟成されて、美化されて、そして正当化される。そして保存されたその景色の意味は良くも悪くも当時とは大きく乖離してしまうことが多い。

だが、意味のない写真はどうだろう。いつもの空間、今日の風景、ありきたりの日常。レンズ越しには誰もいないけど、切り取ってみる。そしてアルバムの底に沈ませる。

 

それはきっと忘れた頃に意味を持つ。

等身大の思い出として。

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