淡々と、かつ着々と。

やるせない26歳が綴るこれは独り言

関西一人旅で思ったこと。

 いつも旅をするときは隣に友がいた。

 

 

 ツイッターを通して各々のスポットは解説したのでここでは総評として自分が感じたことを「語り系小説チック」に書き留めておこうと思う。

 

 

 まず旅行を通して終始感じていたことは、「学生生活の終わり」だ。

 平日の夜行バスに乗り込むのはなにも大学生だけではない。雨に濡れたコートを狭いバスの中で体をくねらせながら脱ぐサラリーマン。溜息と共にゆっくりと座に就く。ああ、なんで私は悲観的な気持ちになるのだろう。あの姿が自分の将来像というわけではないのに。

 そして目的地大阪に着けば、すれ違う制服姿の修学旅行生。横に広がり、大声で雑談を交わしている。しかし不思議と迷惑と思わない。私は素直に微笑ましいと感じた。

 スーツと制服に挟まれた大学生という存在の私はこの四年間どんな恰好で過ごしていたのだろうか。校則に縛られた制服を脱ぎ、何物にも縛られない大学生活を過ごした。そしてこれからは生活のために私はスーツで自分の体を縛る。

 きっと入社の朝、スーツに袖を通すその瞬間、緊張とは違った高揚が胸を叩くだろう。その時の反抗にも似た鼓動を私はしっかり受け入れたいと思った。その心音こそ学生生活の終わりを盛大に告げる鐘の音だ。

 

 

 

 そして一人で旅行することの意義についても色々と考えた。

 一人で歩くことは自由そのものだった。好きなタイミングで好きな時に好きな場所を巡れる。おかげでスケジュール通りに三日間楽しむことができた。

 実際一人になってあらためて自分というものを見直してみると、知らない人に声を掛けたり、英語で最低限の会話をしたり、街灯が一切ない不気味な場所に乗り込んだりと意外と度胸があるんだなぁとしみじみ思った。

 

 しかしその反面、一抹の孤独を感じていたのも事実である。

 

 一人で巡ることに不安はあったが、不満はない。楽しかったし、面白かった。

 ただ観光地を巡るにつれて、誰かとこの光景を誰かと共感したいという気持ちが私の中にひっそりと芽生えていた。

 ツイッターでも書いたが、友達と旅行した場合「あの観光名所が一番の思い出です」となるとは限らない。不思議と頭に残っているのは、なにげない下り道であったり、一休み付くために座った名前も知らない公園のベンチであったり、途中に寄っただけのコンビニであったり、夜な夜な暴走するテンションにまかせて語り合ったことだったり…

 

 こうして「大好きな友人といたこと」が一番の思い出として心に残り続ける。

 

 すれ違う制服姿の少年少女はきっと気づかない。八つ橋をかたっぱしから試食している短髪の少年。そんな彼の背中を追って叱りに行く班長らしき少女。狭い店内で早歩き鬼ごっこが始まる。そんな犬猿の仲ともいえる光景を見ておちょくるクラスメイト達。それを聞いた二人は口を揃えて否定する。そんなどこにでもあるような、けど今ここにしかない光景。けど「今ここ」では気づけない。それは時を経て熟成された「思い出」になった時、初めてその愛おしさに気づく。

 

 

 色々書きましたが、まとめると今度は友達と行きたいなと思いました。(小並感)

 

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