知らないおっさんとの語らい
「俺、昔マルベニにいたんだよね」
薄い煙を吐きながらおっさんが呟いた。
marubeni?マ・ルベニ(1794~1798)?マルボロ?いやマルベニか。なんだろうマルベニって……もしかしてあの日本を代表する総合商社最大手の「丸紅」だろうか。いやいやいや、ありえない。目の前にいるおっさんの容姿は日本を代表する商社マンには程遠い。黒色の中折れハットが彫りの深い顔に相まって占い師か詐欺師にしか見えない。と口に出してツッコまない程度の礼儀は弁えてる。
「えぇ…ほんとですか」
とりあえず前向きに会話を展開させるフリをする。
「お前信じてないだろ。俺が勤めていた部署はなぁ……」
どうやら本当のようだった。
人は見かけによらないとはまさにこのことで、語り口や身振りに注目して話を聞いてみると、ただの陽気なおっさんでは持ちえない”営業力”が溢れ出ている。
オチがしっかり用意されている起承転結かつ理路整然。話がただ上手い人ではない。なぜなら仕事の話をするときの目が「マジ」だったから。
「うちは”人”以外なんでも売ってたよ。戦車とかも売ってたし」
「凄いなぁ……」
笑顔で仕事を語る人はとても魅力的に映る。”やりがい”を語る人生の先輩に向けて「凄いなぁ」と心の中でも呟きながら、少しだけ残っていたコークハイを飲み干して、俺は切り込む。
「それで、どうして丸紅辞めたんですか?」
会社のブランド力、保証された将来、何不自由ない年収。福利厚生のみならず、”やりがい”までも完備。誰もが羨む最高の会社をどうしてやめたのだろうか。
「ああ、妻の病気をきっかけに……」
やはり年収は凄くよかったようだ。20代でマンションを買ったらしい。凄い。
だが、拘束時間がとても長かった。
基本給よりも残業代の方が多いなんて珍しくなかった。つまり「お金はあるけど時間がない」。年々責任が積み重なるにつれてさらに時間がなくなってきたある年、奥さんが重い病にかかった。死と隣り合わせの難病だった。
「だからできるだけ傍にいてあげようと思って、仕事を辞めた」
陽気なおっさんが少しだけ見せた感傷的な表情。その瞳の深さは測れない。
泡が消えたビールにちょびっと口を付けてしばらく無言になる。顔を少しだけ赤くしておっさんは改まった口調で語り始めた。
「仕事やめて気づいたけど、お金なんてあってもあんまり意味ないよ」
「………いやいや!俺はお金欲しいっすよ。ベンツとか乗りたいし、海外旅行行きたいし、いいところ住みたいし……」
するとまた目が丸紅色に染まり営業モードに入る。
「例えば、1000万の高級車に乗っている人と中古の軽自動車に乗っている人がいる。この2人には大きな差があるように見えるけど、実は差はない」
ここで謎の間。
3拍ほど会話が止まる。
「なぜなら”車に乗っている”ということに変わりないから」
「今かっこつけましたね」
「うん、かっこつけた」
少し恥ずかしそうにしながら話を続ける。
「海外リゾート地に行くのも、近くの温泉に行くのも”旅行”に変わりないし、タワーマンションも賃貸アパートも”住居”に変わりない」
騒がしい居酒屋ではっきりと木霊するおっさんの言葉。
「優劣の差はあっても、本質は変わらない」
そしてまた意図された”間”。3拍。無音。
「だから大切なのは''何を''じゃなくて、”誰と”なんだよね」
それ以降の記憶はない。てか、それ以前の記憶もない。ベロンベロンに微睡む空間で唯一はっきりと覚えている夢のような記憶。
最後まで誰だったのか、どうして一緒に飲んでたのか分からなかったけど、多少話に脚色したけど、あの時はごちそうさまでした🙇♂️
ps.すた丼は高校時代の思い出の味(今回の話と全然関係ありません)