淡々と、かつ着々と。

やるせない26歳が綴るこれは独り言

昨日の出来事をうけて

期日前投票に行ってきた。アスファルトに靴底が張り付くような気だるい暑さ。それでも行かなくてはいけない。その理由はあらためて語るまでもないだろう。昨日の出来事が私の足を役所まで向かわせた。

昨日の朝までは「まぁ行けたら行くか」もちろんそのセリフが意味することは「行かない」だ。「投票なんか何の価値もないから行くもんか!」みたいな反民主主義的な思想からではなく、「休日出勤終わり疲れてるだろうし、そのまま飲みに行きたいし、なんだかんだ忘れてしまうだろうなぁ」くらいで、それは単に優先順位の問題でしかない。与党が強すぎる、見方を変えれば野党が雑魚すぎるそんな選挙に乗り気なるわけがない。(ブログでは行こうねとか言ってたけど)

だが、今日起きて最初に思ったことは「選挙に行かなければ!」だった。

国民が幸せになるための国づくり。その根幹を担う人員の選抜、そのための選挙に行こうと自分の意志に変化を起こしたきっかけが最大の不幸というのは何とも皮肉な話である。だが私みたいに「選挙に行こうかな」という意思から「選挙に行かなければ」という意志に変わった人は少なくないだろう。

その変化が意味することは、人の意志に働きかけるのは正論でも甘言でもましてや”言葉”ではなく、偉大な人物の”死”であったということである。この解釈は一歩間違えるとやべー方向にいくから注意が必要だ。

仮に今回投票率が大幅に上がったとしたら、それは政治家たちの働きかけの結果、換言すれば「言葉の有効性」からではない。その変化が示すのは「権力者の死における可能性」だ。

こんな考えの延長線上に武力による”革命思想”がある。今回の出来事は反社会的なやべぇ団体の基本的な考えの理解するには大変いい例だ。投票率が上がった場合、各々のマスメディアがどのように報道するか楽しみである。

では、言葉然り言論に力はないのか。うーんどうなんだろう。

言論は一人では成り立たない。話す人にたいして聞く人が必要だ。はたして「聞こう」と耳を立てている国民はどれほどいるのか。ぶっちゃけ何言ってるかわからないし、選挙シーズンに飛んでくる公約は「ぼくがかんがえたさいきょーのにほん」すぎてなんか笑っちゃうし馬耳東風になってしまうのは仕方ない。逆に両手を握りしめて懸命に街頭演説に耳を傾けている姿を友達に見られたら「あいつやばいやつになっちゃったな」と言われちゃうし、今の日本は政治との距離感が大変難しい。

私見だが、ぶっちゃけ今の日本なら国民が政治に無関心でも全く問題ないだろう。世界的に見ればまだ平和だし、世界的に見れば社会問題も少ないし。こんな意識低い系国民が将来的に日本を発展、ならずとも維持していかなければならないと考えたら確かに不安だが、どーせ夏休みの宿題と一緒で”マジでヤバくなってから”私も含めてみんな政治!政治!と騒ぎ出すに決まってる。空気を読む国民性も相まってすごいムーブメントになるだろう。

そんな日がこないことを願いながら、まぁきてしまったらその時は重い腰を上げる準備をしながら、仲良い友達と大好きな人と明るく楽しく過ごしていきたいものです。

みなさん選挙にはいきましょう。

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