スシロー少年
スシローペロペロ事件から再熱したSNS断罪ブームは今なお続いており、身内しかフォローしていない私の穏やかなタイムラインにも毎日のように不謹慎動画が流れ着く。
なんだか屈託のない笑顔で楽しそうにはしゃぐ子供達から滲み出る若々しさに小さじ1杯程度の羨望を向けてしまう。それでも大人の立場からこう言っておこう。
「若さとはここまで愚かなのか!」
…もはや褒め言葉になりそうだ。
今日は寿司にアルコールを吹きかける少年の姿を目にした。なんか100円くらいで寿司が握れるグミが売ってたなぁ、あれってまだ売ってるのかな、と別に日本の将来を憂うことなく懐かしのお菓子が浮かんできてしまう程度の感想しか出てこないのだが、ところがどっこい、波風立たない私のタイムラインに漂着してくる不謹慎動画の大半はスシロー以前に撮られた動画らしい。となるとこの断罪ブームに乗ってわざわざ深くまで潜って探ってその動画をサルベージしてきた人がいるということだ。
さて、私はブームのきっかけとなったスシローくんに怒りも何もない。ただ「運が悪かったなぁ」と同情している。
少し気掛かりなのは社会正義を謳ってスシローくんを裁いている人間の存在だ。
「特定するなんてやりすぎ!」
「子供の悪ふざけでそこまでしなくても!」
と食ってかかりたいわけではない。ただ一つだけ疑問を投げたい。
「ちゃんと平等に裁いてますか?」
社会正義を語る以上、正義は平等でなくてはいけない。スシロー事件後に出てきた許されざる行為に同じ正義が執行されているだろうか。スシローと同じくらい拡散し、スシローと同じ熱量で特定し、スシローと同じ怒りを持って断罪しているだろうか。
否、そうとは言い難い。サルベージされたものはその日限りの内輪ネタで終わってしまっている。なぜだろう。親の教育に怒りを露わにしていた人たち、鼻高々に特定した情報を掲げ不特定多数にばら撒いていた人たちはどこに行ったのだろう。
どこにも行ってない。ただ飽きたのだ。彼らは飽きたのだ。子供がおもちゃに飽きるように。まあ炎上というのはそういうモノだ。熱しやすく冷めやすい。だから私は「運が悪かったなぁ」とスシロー少年に同情する。オモチャが沢山並ぶ陳列棚の中からたまたま彼が、たまたまインフルエンサーの手に取られて、壊れるまで遊ばれた。”壊すのは別に彼じゃなくてもよかったのだ”。たまたま、本当にたまたま、そこにあったことが全ての始まりだった。
そんなお遊びに”社会正義”と名付けるのは、正義という言葉に失礼だ。