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やるせない26歳が綴るこれは独り言

片思いに「正解」はあるのか / 『愛がなんだ』(角田光代)

『愛がなんだ』(角田光代

 

 1ヵ月ほど前に映画を観てきた。

愛がなんだ」そのタイトルは愛への疑問というよりも、愛にたいする怒り、欺瞞、葛藤を叫んでいるよう見えた。「愛ってなんだろう」とかそんな生易しい言葉で悩む人はきっとそこまで愛に悩んでいない。恋愛をしている自分の在り方に悩んでいると思う。愛の追求は誰にも止められない一種の狂気だ。だから苦悩しながら感情的に答えを探し出そうとするほうがよっぽど不器用だけど、そんな人が私が好きだ。

 

詳しい映画の感想は⇩

何度も繰り返すが主人公テルコが片思いしているマモちゃん役の成田凌が「俺ってカッコよくないし…」と言い始めたあのシーンは未だに許していない。

reyu.hatenablog.com

 

 

映画鑑賞から約1ヵ月。私はようやく原作を手に取ることができた。観終わってすぐに購入したのだが、思い出深い作品だから…いやそうではない。映画を観た時に感じた胸を刺すような既視感を未だに鮮明に覚えてたから、読み始めることができなかったのかもしれない。

私はフィクションの世界で描かれる慈愛に満ちたラブストーリーは苦手だ。否定をするわけではなく、綺麗すぎて直視できないからだ。それはいわば幼少期に読んだ童話に似ている。年長頃になればありえない話だと気づき始める、だけどいつかもしかしたらと期待してしまう夢物語。その延長線上に位置する純愛ラブストーリーは23歳の男性にとってあまりにも距離を感じる。

そういう意味でも、この作品は自分の肌とよく合った。どん底の中で身を焼き切るように苦しむ作品が好きとか、ノスタルジー的な悲愴で染まったエンディング愛好者とかではない。恥ずかしいほどかっこつけて、繕って、偽って、人間らしく時間が流れて行く世界が好きなのだ。どんな作品であれ、まるでその世界が呼吸をしているかのようなリアリティを持った作品はページをめくる手を止めさせてくれないことが多い。「愛がなんだ」もそういった作品の一つだった。

 

話の筋は大きく変わらない。ただ、小説であることの強みを感じた。それは主人公テルコの心情に自分を落とし込むことができた点だ。映画だと、傾倒的な恋愛に奔走するテルコの姿がいわば「愚かな」恋愛だと私は述べた。それは前回ブログにも書いた通りである。しかし原作を読んでみると、テルコ自身がいかに自分を客観視していたかが分かる。つまり「自分でもおかしいと思っている」ことを重々理解した上で彼女は愛するマモちゃんのために自分の首を絞めていくのだ。献身的とも盲目的とも捉えることができるその姿は自分の周りでもたびたび目撃する。それを「愚か」と一蹴できるのだろうか。

 

 

物語中盤、ナカハラくんという年下の男の子が登場する。彼はテルコの親友である葉子に好意を寄せ、その葉子とはずっと「いい関係」を保ってきた。印象的なナカハラくんの台詞がある。テルコがナカハラくんに向けて、あんたはどうしたいのと問い詰めたシーンだ。

 

「もうほんと、今日はなんでかほかにだれもいねえよってときに、あっ、ナカハラがいんじゃんって、思い出してもらえるようになりたいんす」p.95

 

ここで「付き合いたい」と言い返せる人はきっと強くて自信があって人生でも勝てる人なのだろう。そういう人は幸せを自らの手で掴みとって、そして幸せの枠組みから外れない程度の不幸を経験しながら日々を謳歌していく。

ナカハラくんはそうではない。現状に満足しろと自分に言い聞かせながら、自分を律して、目をつぶって、日々の幸せを噛みしめる。ただ口の中には苦さしか溢れ出てこない。不幸の中に本来あるはずのない幸せを探す。これもまた愚かな行為なのだろうか。彼の姿が誰かと重なる。

 

結局、愚か愚かと思っていた生き方自体が「恋愛」なのだ。誰にも理解されず、そして理解されようとも思わない。目的地は一つ「好きな人のそばにいたい」それだけを追い求めて必死でもがく片思い。しかしその気持ちが行き着いた先は「曖昧な関係」となり自分を苦しめてくることがある。その関係ではきっと自分は幸せになれないと分かっている。だけど、「今」幸せだからその関係を自ら受け入れる。片思いはそれでいい。

 

 

物語の最後。テルコとナカハラくんは正反対の道を進んでいく。

好きという感情のまま、マモちゃん距離を取ると決めたテルコ。

もう会わないという形で葉子さんとの関係に終止符を打ったナカハラくん。

 

どちらが正しいのだろうか。どちらが幸せなのだろうか。

 

片思いに「正解」はあるのか。