人の命を時間で償えるのか
約1年ほど前に発生したこの『事件』を覚えているだろうか。
当時22歳だった大学生がバイクで走行中、後続車に煽られ転倒し、体を強く打って死亡したといういたたまれない事件だ。
『大学生』『バイク』『同い年』
自分と共通点が多くとても他人事とは思えない事件だった。
そして特に怒りを覚えたのは加害者のドライブレコーダーに記録されていた音声データだ。
「はい、おわりー」
第一審の供述で被告はこの発言についてこう述べた。
「事故を起こして自分の人生が『終わった』と意味していた」
なんて言い訳甚だしい。
先日、第二審の判決が下された。
殺人罪適応で懲役16年。
16年……たった16年を費やせばいいのである。
人を殺しても16年間過ごせば、再び一般人としての生活が許されるのである。
それもその空間は、雨風凌げる衣食住付きの快適空間。
労働で多少のお金も手に入るため、自分の欲望を叶えることもできる。
そんな人権が守られた場所で16年生きるだけで贖罪になるのだ。
これじゃ雨に打たれ風に吹かれ明日の生活すら分からない無罪のホームレスのほうが生を懇願し、死に近い苦しみを味わっているじゃないか。
つまり非人道的な発言だと承知で書くが、苦しみの果てにホームレスとなるくらいなら
偶然を装って人を〇して刑務所に入ったほうが「人としての生活を営むことができる」
気がする。
だから目には目を精神で被害者と同等、またはそれ以上の苦しみを与える『拷問』を復活させた方が犯罪抑止にはなりそうだと思うのだが、まぁ人権云々の問題で難しいのだろう。
もうシュビラシステムの導入を待つしかない。