淡々と、かつ着々と。

やるせない26歳が綴るこれは独り言

今週のお題「傘」

「雨か……」

濁った空にぼそっと呟いた彼は一本のビニール傘を手にした。躊躇なく傘立てから抜かれたそれは自分のものではない。それが他人のものだと知りながら、慣れた手つきで傘を広げて彼は街へ向かう。ビニール傘は所有するものではなく共有するもの。取って取られて持ち主が変わっていく、金と女とビニール傘は天下の周り物だ。舐めるように空を見るその顔に罪悪感は微塵もない。

 

「うげっ……」

傘がない。ビニール傘が消えた。ない、ない、ない。剣山のように傘が刺さってる中に「安心の65cm!」とデカデカ書かれた傘は見当たらない。誰かが盗んだ……いや、間違えて持っていたのかもな。誰にでも間違いはあることだ、仕方ない仕方ない。自分に言い聞かせて楽観的な気持ちを作り上げてもこの雨の前では無意味だった。いやーひどい雨だ。諦めの気持ちが深いため息となって漏れた。それすらも雨の音にかき消される。大粒の雨が激しく水面を立てている。歩けば5分、走れば2分くらいか……電子レンジで温めてもらったお弁当がほのかに暖かい。ビニール袋を握る右手に力が入る。

 

「あっ……」

その男の人は雨音の中に飛び込んでいった。コンビニの出入口で逡巡する彼に“余った”傘を差し出したその手が届くことはなかった。こんな雨ならイートインスペースで雨宿りでもすればいいのに、男ってほんと馬鹿。彼女は再び椅子に腰かける。窓ガラスを通り越して届いてくる雨の音。ほんと、ばか。なにが傘を持ってきてくれだよ。わざわざ化粧までして電車を乗り継いでやってきたのに、やっぱり大丈夫ってなんなの。連絡もつかないし。ってこんなに苛立ってるのに面と向かって怒れない私も悪いんだけど。この余った傘をどこかに放り捨てたい。けどきっと捨てられないんだろうな。

 

「た、だいま」

亭主の帰りに反応はない。昔は……なんて哀愁に浸ることも私はしない。これが熟した家族ってものだ。奥さんは1番近い他人だったか、そんなことを言ったのは誰だったかな。底が擦り切れた革靴を脱ごうと屈んだとき腕から何かが滑り落ちた。それは黒色の傘だった。

しまった今日雨だったか、通り雨だといいが……ふりしきる雨をコンビニのご飯スペースでしばらく眺めていた。刻々とアポイントの時間も迫ってきたが、どうやらやむ気配はなさそうだった。先ほど買ったレシートをポケットから取り出してスイカの残高を確認する。残高785円。私は渋々売り物のビニール傘に手を伸ばすと後ろから声をかけられた。もしよかったら使ってください。その言葉と一緒に差し出されたのはきれいな黒色の傘だった。使ってください、お願いします。返さなくて大丈夫ですとまるで押し付けてくるように渡してきたのでだ私は引き気味に、しかしありがたく頂戴した。若い女の子から傘を渡される。まるで物語の導入を想起させる出来事だったが、そのあとに待っていたのは終わりがないクレーム対応だった。結局終電間際まで続いたトキメキとは遠い位置にあるドキドキに今日もクタクタになってしまって今日のことをすっかり忘れていた。そうだそんなことがあったな。いつかまた雨の日に会えたらそのとき返そう。勝手に使われないように傘立ての奥の方に隠そうとすると、見覚えのない傘の柄が目に入った。薄暗い玄関で仄かに光る「65cm」の文字、無造作に巻かれたビニール傘。

その隣に、黒い傘をそっと差し込んだ。

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