淡々と、かつ着々と。

やるせない26歳が綴るこれは独り言

私たちと時代が違うなぁ

効率と価値観と今と昔

効率を求めるとつい新しいものに手を出したくなる。

従来のやり方でもできないことはないのだが、より早く、より正確に、そしてより楽に作業するために現代文明の力をすぐ頼ってしまうのは私が現代っ子だからだろうか。

指先一本でなんでもできる時代で情報の集め方に悩むことはない。答えはすべて手元にあるのだから。

 

そんなすぐ指を動かしがちな私に苦言を呈する人がいる。“昔の人”だ。

昔の人は楽することを嫌う、いや嫌っているわけではない、楽することに罪悪感というか違和感を感じるのだ。運動せずに飲むポカリスエットのような悪くはないけどどこか負に落ちない感じだと思う。

根性論で現代文明を論破されたみたいな展開を経験したことはないが、私が出会った昔の人は賢明に動く私の親指をぽけーっと眺めて「私たちとは時代が違うなぁ」と一言。まるで今を噛みしめながら呟かれた「時代が違う」。

根性論は嫌いじゃない。辛いことの先にある成長を否定することはない。

だが私にとってそんな不確定なものは実に効率が悪いのだ。あるものは使う、そのなにが悪い。

 

だが私はここで”昔の人“を蔑称として使う気はさらさらない。

なぜなら私もすでに昔の人だからである。

「昔」は『今』をどこに据えるかによって変わってくるのだが、15〜18歳の高校生が生きる世界を『今』の前線だとした場合、Tiktokの面白さは分からないし(可愛い子多いよねグヘヘ)、タピオカミルクティの美味しさはわからなかったし、「それな」「エモい」なんて恥ずかしくて使えなくてやばたにえん、最近のジャニーズはSnowManしか知らないし……こんな散々な状態の私がいる。

アプリはTwitter、飲み物はお〜いお茶、「草」「おk」を多用する私が昔の人だというのは自明の理だ。これはまだブームの流れでしかないが、いずれやってくるであろう従来の常識をぶち壊す大波の到来を前にしたとき私達は完全な昔の人になる。

 

 

約2ヶ月前、私は『今』と『昔』の狭間に立たされた。

森美術館で開かれていた展覧会『未来と芸術展』に行ってきたときのことだ。最先端のテクノロジーが織り込まれた未来の衣食住、その生活の中にある芸術は今後どうなるのかといった大変興味深いテーマの元、映像、絵画、模型、体験型作品など様々なアートが並べられていた。

 

スクリーンに微笑む赤ちゃんの映像が流れていた。可愛い。どうやらミュータントの作り方ではなさそうだ。ではこれは一体なにを伝えたいのだろうか。出てきた医者の話を聞くと(字幕を読むと)、とんでもないことがわかった。

その赤ちゃんは3つのDNAを持っていたのだ。つまりお父さんとお母さんと、もう1人の人間から産まれた生命だった。

どうやら母親の病気が遺伝するのを避けるために抗体を持つ第三者ミトコンドリアが使われたため実質“3人から生まれた”子になったらしい。この良し悪しは分からない。無事産まれたことに関しては良しであることは間違いないが、なんだろうこの違和感は。

そして映像はこうに続いた。

「運動が得意な子を生みたければ運動神経がいい人のDNAを少し付け足すだけでいい」

その子は夫妻の子どもには変わりなく、容姿に第三者が影響することもないだろう。

 

だけど、うーーーん。

たとえば自分の娘が

「私、頭いい子を産みたいから彼とは別にIQが高い人のDNAを配合するね〜」

なんて言われたら絶対反対する。

「なんで?頭いい方がいいじゃん」

と言われたら、私はこう言うつもりだ

「産まれてきた子が頭よくなるように頑張って育てようよ」

だが、次に言い返されるであろう言葉はすぐに思いつく。

「え、そんなの効率悪くない?」

こうなったら私はもうダメだ。「いや、それはね、あのね」と言葉に詰まりながら倫理とか道徳とか不明瞭で曖昧なものを並べるしかない。

生まれながらにして頭がいい方が”効率“はいいのかもしれないけど……むむむ。

 

『今』の常識と価値観を前に昔の人は理解できても納得はできない。

昔の人は移りゆく世界に美化された過去を重ねながらこう呟くしかない。

「私たちと時代が違うなぁ」

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