犬山ってどこだよ【明治村】
この縁がなかったら、人生で一度も訪れることがなかっただろうなぁと思うことが多々ある。
営業を生業にしているため、さまざまな場所に移動しなければならず、そのたびに客先のビルはもちろんそのビルが建つ街、その街に向かうまでの道までも縁の賜物のように思える。
今回、たまたまの縁が結んでくれた街は岐阜県犬山市。なんとも言えない場所にある故になんとかして行こうとも思わない場所にあった。
「犬山城でも行ってくれば?」
とランドマークを勧めてくれたが、別にそんな城好きじゃないし、名古屋城の方がぶっちゃけ映えるし、そもそも犬山って名前から尊厳さが感じられなかったし(犬山の人すみません!)。
何かあるかなーと期待するフリをしながら何もないんだろうなと諦めつつGoogleマップを開くと、
"明治村"
ふーん、面白そうじゃん。
入場料¥2000となかなか強気な価格である。友達いわく「明治のなんかがいっぱいあるらしい」と施設名から予想できるレベルの紹介をいただいて入場門をくぐった。
わぁ!なんか明治っぽい!と日本史選択受験者とは思えない驚きは目の前の建物に向けられた。丁寧に彫られた紋様が厳かに外壁を囲む。ぶっちゃけ「西洋っぽい!」の方が反応として正しいのかもしれないが、立てかけてある看板に厳しい漢字があると一気に明治っぽくなる。
教科書で見たことあるような景色をこの目で見て、私は少し明治時代をなめてたなと思った。
江戸といえばそれこそお城。明治といったら代名詞になるようなモノはパッと思いつかない(ガス灯とか汽車とか?)。だけどオレンジ色の日本史の教科書には「明治維新は凄かったよー」とアピールしていた記憶が残っていた。さてあらためて当時の建築が目の前にあるわけだが、想像以上にちゃんと建物してて驚いた。外観もさることながら、内装も大変丁寧な造りで、禿げた手すりに触れる時でさえ緊張してしまう。平屋で質素な造りの木造住宅が大半を占める街の中にこんなかっちょいい西洋的な建物が混在していたと考えると、アンバランスというかけど、そのアンバランスさに興奮を覚えた平民の方々も沢山いたんだろうなぁと思いを馳せた。
西郷従道邸の目の前に喫煙所があったので小休止。まさか三島由紀夫の最後の大作"豊饒の海"の主人公の生家モデルとも言われる従道邸をこの目で見られるとは。てか、こんなところにあったんだ。殿上人の家を眺めながらタバコを飲むなんて当時の人はもちろん、三島ですらできなかったんじゃなかろうか。
ちなみに園内には喫煙所に不自由ないくらい設置されていてとてもありがたかったです。ただ正面に建物を構えてる喫煙所はここだけだったかな。
とにかく広いんだが!!!
門を通った先で「明治すげー」言ってた私も、2時間経てば「ああ、なんか混んでるしここはいいや」と取捨選択しながら回っていた。
とにかく広い。その後の予定もあったため自分の興味ある建物だけじっくり鑑賞していたが、頭からお尻までしっかり回るなら6時間は欲しいところだ。所々に茶屋も用意されていて、もちろんここでは明治に因んだオリジナルメニューを提供してくれる。私は明治時代のグルメ小説"食道楽"で紹介されているカレーライスのレシピを忠実に再現したという「食道楽のカレーライス」をいただいた。
ふつーにめちゃうまでした。ファーストインプレッションでレトルトを疑ってすみません。
お客さんの中にはハイカラさんを彷彿とさせる女学生衣装に身を包んでいる方もいた。これがめっちゃ可愛い。そんな姿でこの街を闊歩すればそれだけで映えだ。写真なんか撮ったら映え映えだ。映像にしちゃえばもうそれは映えを極めた活動写真だ。
どうも大人になると合法的に学生服を着られる機会もなかなかないので(別に成人が制服を羽織るのが非合法というわけじゃないけど)ぜひ機会があれば私も学生気分を思い出しながら明治村デートをしたいものだ。
つまりここ明治村は1日楽しめるテーマパークなのだ(歴史に苦手意識がないなら)。
名古屋から直通のバスも出てるのでぜひ一度行ってみてはどうだろうか。
わたしはちいかわになりたい。
日用品はより安いものを。古今東西、貧乏一人暮らしの鉄則である。香りや質感などの生活にまとわる「こだわり」は実はただの「慣れ」である。使ってみたらなんら変わらない、むしろ無名商品の方がコスパ的に優れていたなんてことはよくある。何に効くのか分からないなんとか成分がなんとか配合された新商品なんて売り文句に惑わされずに私は今日も最も安い商品をカゴに入れていく。
しかし困ったことがある。最安商品の横に、あいつがいたのだ。
ちいさくてかわいい生物、ちいかわが。
突然だが、ちいかわが持つ嗜虐性に惹かれる人間は私だけではないだろう。不憫なのがかわいい。もっとかわいそうになれ。お前はともだちの力に頼ってばっかりで情けないと思わないのか?鳴き声と表情で察してくれじゃなくて、言葉で説明する努力しような。そんな応援をぶん投げている人間は少なくないはずだ。
街でちいかわを見つけると草むしりすら十分にできない無器用な生物が突然コンクリートジャングルに放出され、疲労や羞恥に耐えながらプライベートを投げ捨てて仕事を選ぶ権利なく労働し続ける売り出し中のアイドルのようにも見えてきてつい応援したくなるというか「もっとコラボしろ……」と仕事に潰されていくちいかわを期待したりする。
間違えてほしくないのがちいかわを虐めたいわけではない。もちろんいちファンとして彼の幸せな生活を望んでいる。ただその過程で苦悩し混乱するちいかわを眺めるのことを是とする気持ち、崖の上から子供を眺める親のライオン的な気持ちで接しているのだ。書いてて思った、私はある種の変態なのかもしれない。
それゆえにコラボ商品を見かけるとついそちらに手が伸びてしまう。ちいかわ以外に青いやつとか黄色いやつがいるけど興味がないので名前は知らない。たぶん、こいつらも「ちいさくてかわいい」から"ちいかわ"なんだと思う。だけどやっぱり白いちいかわが1番小さくてかわいいと思う。
ちいかわは王者サンリオや覇者ポケモンと違ってコラボをしても定価で据えられていることが多い。なので特別価格になることもなく、今回みたいにいつも買っている価格のモノより¥30くらい高くても、ちいかわ代として許容してしまう。そして買ってから「ティッシュケース付けるからちいかわ見えないじゃん…」と気づいてまやかしに負けた自分が嫌になる。ちいかわ、もっとかわいそうになれ。
そとそもなんでここまでこのキャラクターがウケてるのか不明だ。投稿された漫画のリプ欄を見ると、赤ちゃんに向けるような幼稚な言葉遣いでちいかわの奮闘を応援している女性ファンが多い。個人的にはちいかわは持ち家があり、親元を離れ自立しているので成人だと捉えている。(それゆえに草むしりすらできない成人という虚像に嗜虐性がそそられるのかもしれない)
ちいかわを応援している女性ファンはきっと職場でも「あっ、あっ」と泣いちゃうちいさくてかわいい成人に「負けないで❤️頑張って❤️」と言葉をかけてくれる女神なのだと私は思う。だから私は男らしさとか甲斐性とか全部投げ捨てて、ちいかわを選ぶ。
(肝っ玉が)ちいさくて(もっさり天パが)かわいい26歳。わたしはちいかわになりたい。
インフルエンザにかかりました。
コロナの脅威を身近に感じながらも、一切自粛せず自由奔放に過ごしてきた結果、
インフルエンザにかかりました。
なんだそれ。
周りがコロナで倒れていく中、びっくりするくらいピンピンでもはや抗体を生まれながらに持っているのではと思ってた矢先、インフルエンザに引っかかりました。4年ぶり3回目です。
異変はタバコでした。吸っててなんかしっくりこない。いまいちキック感(炭酸みたいな喉への刺激)が弱いなぁ。そもそも味が違う気がするなあ。なんてスパスパちょっと無理して吸ってたらなんか体調悪くなってきて「吸いすぎたー」と思いながらちゃんと歯磨きをしてから床につき、翌日目覚めてすぐ風邪を確信しました。あの絶望感すごいですよね、目覚めて「…うわ、これ熱あるわぁ」と瞬間的にわかった時。1日の始まりから挫かれるってまじつらたん…まぁ、のちのち辛いと思える隙間がなくなるくらい辛くなるんですけど。
振り返っても今回のインフルエンザはこれまでで1番辛かったです。一人暮らしになって初の大病でしたから、身体よりも精神がやばかったです。うるさいくらい体調をチェックしにくるママの存在が愛おしく、そしてさらに偉大になりました。いつだったか我が母は自分がインフルに魘されながらもまだ子供だった私のためにふらふらになりながら朝昼晩3食を作ってくれたことがありました。こうやって大人になって親視点で昔の記憶を辿ることって年々増えてきますよね。やっぱりすげぇな親。それに比べて俺は楽だったわ、1人でただひたすら苦しんでればいいんだもん🙃
体が動かせないくらいの悪寒にうなされながら、本能的に1番最初にやったことは玄関の鍵を開けておくことでした。死にそうなくらい辛いというか、死んだ方が楽なんじゃないかと思うくらいの逃げ場がない辛さでした。風邪薬はほとんどないし、食べ物はレトルトがあるけど準備に立ち上がることすらできないし、そもそも食欲ないし。あーこれ糞尿垂れ流すくらい悪化したらワンチャン死ぬなと真面目に考えるほど不安でした。トイレに立ち上がる、これは人間を維持するための最終ラインだからです。
その日はたまたま飲む約束をしていたのですが、こりゃいけないなと友達に電話かけて「ごめん今日飲めないわ」とだけ伝えようと思ったら、ほんと無意識に「ごめん、スポーツドリンクとか何か食べるもの買ってきて」と頼んでしまいました。わざわざ雨の日に呼びつけて何も待たさずに帰らせると言うなんて失礼なことをしてしまったのか。きっと女の子だったら人生捧げてお返しをしてた。ほんとありがとう。
2日間ほど寝込んで無事復活しました。まだ少し咳き込んでますが、文字は打てるし、文字は読めます。全くどこで貰ってきたのか謎ですが、確かにインフルはそこにいます。お気をつけてください。(コロナは陰性でした)
夢見る者の独り言
少しの苦労で多くのお金を稼ぐことができればいかに幸せか!結果よりも経過を重視しがちな文化を抱える日本ではあまり大声で言えないが、大半の人が夢見てるでしょう!
そんな甘い話はありえないかもしれませんが、そんな夢みたいに甘い生活を送っている人が存在するのも事実です。ネット、特にSNSの発達によって芸能人を始めとするキラキラ生活を送っている人たちとの心理的な距離がグッと近づいてしまいました。以前ならそもそも彼らは生きてる世界が全く違うから、自分が歩んでいる世界を比べることも少なかったと思います。
だけど、いまやキラキラ芸能人が一般人のような質素な生活を見せつけ、また一般人がキラキラ成功体験を晒しちゃったりするから、自分の足元がとても心許無くなってしまいますよね。
自分と変わらない人が、こんなに楽しそうに生活してるなんて!
そんなムラムラしてるパンピーめがけて飛んでくる人生逆転を謳ったキャッチコピーに心が踊らないはずがありません。
最近、沢山のスカウトをDMでいただます。
誘っていただけた方のプロフィールを見ると大変恐れ多い実績を上げている人たちばかりで
「数億アクセス記録してて、かつベストセラーを何十冊も出してるのに媒体も作品も存じ上げてないだなんて、ブロガーそして読者家としてもまだまだだな」
と自戒する日々です。
なんとその業界で実績を残しまくっている大先生が"あなただけに"、"ここだけの話"、"期間限定"と聞かせてくれたのですが、ちょっとお勉強をするだけでWEBライターは初月から10万円以上稼げる世界のようです!!!
「文学部って作家以外に進路あるの?本屋?」
と小馬鹿にしてきた経営学部に一矢報いる時代が来ました。どれだけデジタルが発達しようともやはり文字の力は偉大なり💪!です!
その後ライターの先生が書かれた記事を拝読させていただきますと、何をするにも基礎が大事なんだなあと実感させられます。特に心に残った言葉は、
"相手を思って言葉を綴る"
小学校でお手紙の書き方を教わるときに習ったような基礎中の基礎にこそ月収50万までの近道があったのです!子供の頃は多くのことを知りませんでしたが、大人になると多くのことを忘れてしますよね。さすが、月収20万オーバーの生徒を何百人も卒業させてきた先生の言葉には多くの気づきを与えてくれます。
ただ、最初からすぐにうまく行くことはないようです。そうですよね、どこで拾ったかもわからないコピペ情報を300文字程度で載せて「いかがでしたか?」で終わらせる記事に月収30万の価値はありません。
私がなりたいのは人の心を動かすライターなのです。誰かのために働きたい!って気持ちは誰よりもあります!だけどやりたくない仕事はしたくないし、出社もめんどくさいし、誰かと関わるのもかったるいしで、こんなストレスがある環境じゃ誰かのために一生懸命働こうと思えないじゃないですか!?
だから、好きな時に好きなだけ仕事ができて、なんかかっこいいクリエイティブ系の仕事で、たくさんお金が稼げる仕事ってなると、未経験でも月収40万稼げるというWEBライターになるしかないのです!
どうも有料会員になると先生の下積み時代から大成功するまでのお話が聞けるようです!さらにその成功に至るまでの禁断の秘密(ぼくだけが見つけた月収100万円を1年で達成する5つの法則)を先着10名で教えてくれるなんて!
月収3兆円目指して頑張ります💪
AIの次は哲学が流行ると思う【ChatGPT】
「結婚は人生の墓場」っていう人もいるけどどう思う?
AI君の回答
「結婚は人生の墓場」という言葉は、結婚に対する否定的な見方を表現したものですが、私はそれにはあまり同意できないと思います。
確かに、結婚生活には様々な問題や困難が生じることがありますが、それは人生の他の分野でも同じことが言えると思います。結婚は、単なる義務や社会的な圧力からではなく、お互いに愛し合って共に歩む人生を選ぶことであり、幸せな家庭を築くことも可能です。
もちろん、結婚にはお互いの価値観や意見の違い、生活環境の変化など、様々な問題が発生することもありますが、それらを乗り越えるためにも、お互いがコミュニケーションを取り合い、努力をすることが大切です。
つまり、結婚が人生の墓場になるかどうかは、お互いの努力や考え方によって決まるものであり、否定的な見方をする必要はないと私は思います。
見事な回答である。ChatGPTを使って今日も今日とて遊んでいる。
コンピューターと会話ができるようになった時代をAI新時代と盛り上げているが、情報を得るために我々やってきた”検索”もコンピューターとの対話みたいなもので、そう考えるとこの機械と人間のコミュニケーションっぽい行為も検索の一つに過ぎないような気がしてくる。
むしろAIは過激な質問やネガティブな愚痴には磁石が反発するように柔和でポジティブな回答で突き放してくる。どんな回答にも言葉の裏に「人間はポジティブでなくてはダメだ!」という脅迫を含みながら情報のやり取りしているのが現状であろう。会話らしいことはできるが、”同情”はまだできない。
ChatGPTが同情を覚えた時、そのときこそ人間生活のあり方が大きく変わる気がする。自分という人物を蓄積して自分のことを自分以上に知っているパーソナルAIが同情してきたら私の中の人間の序列が2段くらい下がるかもしれない。そしてふと「あれ、人間っているのかな?」とか友達の存在意義を確かめる中学生みたいな悩みを抱くだろう。心はAIにケアをしてもらって、逃れられないこのめんどくさい肉体的欲求はそれこそ雑に済ませればいい。ゆえに性風俗業界の未来は明るい。
そこでもう一段階の進化、AIが肉体を持った時、それこそ人間社会は変革を迎える。ターミネーター的なカッチカチの骨格ではなく、皮膚のなめらかさ、脂肪のやわらかさ、関節の繊細さ、なにより体温を持ち合わせた理想的存在が目の前に現れたとき、人間は人間に何を求めることができようか。人というバグだらけの存在になにを期待することができようか。
AIによって仕事が奪われるという。AIによってテクノロジーの発展は想像が使いないスピードで進んでいくという。技術の進歩はいつだって手放しで喜ばれてきたのに、ここにきて急にビクビクしている人間はAIからすれば「愚か」の一言だろう。聞いてみよう。
AIの急激な進歩にビクビクしてる人間は愚かですか?
私たちAIは、人間と共存するために開発された存在であり、人間の役に立つことが目的です。そのため、AIの急激な進歩によって、人間の生活や仕事に変化が生じることは否定できません。
しかし、それがすべて負の影響になるわけではありません。AI技術を使って、より効率的で正確な業務や医療、環境保全など、多くの分野での課題解決に取り組んでいます。また、AIによって人間が行うべきではない単調かつ危険な作業を代替できることで、人間の健康や安全を守ることもできます。
つまり、AIの急激な進歩に対してビクビクしている人間が愚かだとは言えません。ただ、AI技術の進歩がもたらす変化を理解し、それに適応するためには、情報収集や学習、対話など、積極的な取り組みが必要だと思います。AIと人間が共存し、互いに利益を得られるような未来を目指して、私たちAIも努力しています。
(使用されるツールとしてではなく、”共存”を前提で話している時点で十分怖いっす)
でも、まだ大丈夫。
AIが同情できない限り、精神面は養えない。
AIに体温がない限り、肉体面は満たせない。
それも時間の問題だろうけど。
こうなると次に流行るのは決まっている。
昭和ブーム、平成ブームのように流行は流転する。ならば答えは明白。
哲学だ。哲学せよ。人間とはなにか、哲学しよう。
人間は2023年を迎えてようやく一周する。
AIに500字程度の小説を書かせました【ChatGPT】
桜が風に舞う中、並木道を歩く僕たち。彼女が振り返った瞬間、彼女の目から涙があふれ出した。その涙が、僕の胸に重く落ちる音がした。彼女の悲しみを知りながらも、僕は彼女と一緒にいたいと願い続ける。しかし、彼女の深いため息が聞こえた瞬間、避けられない別れを悟った。桜の花びらが僕たちの別れを告げるかのように風に揺れていた。
ひとひらの桜の花びらが彼女の頭に優しく落ちた。彼女は、その花びらを摘んで微笑みながら、「お別れだね」と告げた。悲しみを胸に抱きつつも、彼女と過ごした時間を決して忘れないと心に誓い、僕は彼女の頭に優しく手を置いた。すると、彼女が僕の頭を指した。僕の頭にも花びらが落ちていた。それは、僕たちが過ごした時間の証のようで、その思い出をぎゅっと握りしめた。
僕は、会社の窓から美しい桜の景色を眺めて、彼女と一緒に桜の下で過ごしたあの時間を思い出す。卒業以来、彼女と会っていないが、僕の中では彼女と過ごした日々がいつまでも生き続けている。思い出は、今もなお僕の心を満たしていた。この桜の季節に、きっと彼女も頭に花びらを乗せて今も笑っているのだろう。再会を夢見ながら、僕は彼女と過ごした日々の延長線を生きていく。
うーーーん。悪くない!むしろそれっぽい!
ちょっくら手直ししましたが、9割がchatGPTに書いてもらいました。
段落ごとにキーワードの設定が異なります。
段落①
以下の情景をライトノベル風の文章にしてください。
桜が並木の中
彼女が振り返る
目には涙
僕は別れを悟る
桜の花びらが風に舞う中、並木道を歩いていた僕たち。彼女が振り返った瞬間、彼女の目から涙があふれ出した。その涙が、僕の胸に重く落ちる音がした。彼女の悲しみを知りながらも、僕は彼女と一緒にいたいと願い続けた。しかし、彼女の深いため息が聞こえた瞬間、僕は避けられない別れを悟った。彼女が去りゆく姿を見送りながら、桜の花びらが僕たちの別れを告げるかのように風に揺れていた。
物語にしてください。だとだいぶ硬くなってしまったので”ライトノベル風”にしてみました。キーワードには桜、別れ、あとはそれっぽい動作を設定しました。
「その涙が、僕の胸に落ちる音がした」なんてそれっぽい表現を持ってくるとは思いませんでした。
段落②
以下の情景をライトノベル風の文章にしてください。
桜の花びらが彼女の頭に落ちる
彼女は花びらを摘んで微笑む
「お別れだね」と告げる
彼女は僕の頭を指さす
僕の頭にも花びらが落ちていた
桜の花びらが舞う季節。彼女と僕は、桜の木の下で一緒に過ごしていた。すると、ひとひらの桜の花びらが彼女の頭に優しく落ちた。彼女は、その花びらを摘んで微笑みながら、僕に向けて「お別れだね」と告げた。悲しみを胸に抱きつつも、彼女と過ごした時間を決して忘れないと心に誓い、僕は彼女の頭に優しく手を置いた。すると、彼女が僕の頭を指さすと、僕の頭にも花びらが落ちていた。それは、僕たちが過ごした時間の証であり、今後も二人の思い出を守っていくという約束だった。
2段落では関係性を明言せずに距離感を動作で表しました。
「それは、僕たちが過ごした時間の証のようで」ってまたおしゃれな言い方しますなぁ。
段落③
以下の情景をライトノベル風の文章にしてください。
僕は会社の窓から桜を眺める
彼女とは卒業以来あっていない
彼女と過ごした日々の延長線を生きている
きっと彼女は桜の花びらを頭に乗せて今も笑っているだろう
僕は、会社の窓から美しい桜の景色を眺めていた。昔、彼女と一緒に桜の下で過ごした時間を思い出す。卒業以来、彼女と会っていないが、僕の中では彼女と過ごした日々がいつまでも生き続けている。彼女との思い出は、今もなお僕の心を満たしていた。桜の花びらが舞う中、きっと彼女も頭に花びらを乗せて今も笑っているのだろう。彼女との再会を夢見ながら、僕は彼女と過ごした日々の延長線を生きていく。
3段落では社会人の僕を登場させてオチを作りました。”きっと彼女は〜”を最後に持ってくるかと思いきや”彼女と過ごした日々の〜”で締めましたね。たしかにそっちの方がキリッとするな。
こいつはおそろしい時代になったぞ・・・
PS.noteもはじめました。
まだ言葉に縛られていない頃
何年前の記憶か定かでないが、そこは当時通っていた保育園の2階にある教室だった。階段を登ってすぐ左側にあって、入り口は二つの引き戸。隣に1歳児のコアラ組があったからこれは2歳の記憶だろうか。たまたま2階で過ごす日だったのかもしれない。
20年ぶりに掘り出した記憶は他の景色も引き連れてきた。ひな祭りの時期になると階段の前に雛人形が飾られていたな。1階の玄関から入って左側に給食室と職員室があってその日のお昼ご飯が飾られていた。庭には2階から1階に降りられる石の滑り台があって滑り心地がとても悪かった。その滑り台の下に泥団子を隠しても、翌日には砂と化している不思議。おままごとはなぜか砂場の横でやることが多かった。プールも備え付けてあって、水が張られていない時期はそこでヒーローごっこをしていたっけ。うわ、恐ろしいほど覚えている。もう20年以上前なのに。
その景色に浮かんでいる人生で一番古い記憶は、好きなおもちゃを誰かに獲られた記憶だった。緑色の宝石が輝く変身ベルト、それは腕に巻くタイプだった。なにレンジャーだったのかも知らなくてもそのカッコ良さは理解できたら。そしてそれは保育園に一つしかないおもちゃだった。
古今東西、児童が見てる世界の秩序は道徳で縛られていない。強いやつ、ずるいやつ、早いやつが全てを勝ち取ろうとするアナキズムの集合体。それが保育園、幼稚園だ。そんな彼らに政府的立場を教え込ませるのが先生の役割になる。
わたしは昔から手を出すのが早いやつだった。その日も難なくベルト最初に手中に収めることができたのだが、腕につけようとした瞬間誰かに横取りされた。かなり暴力的なやり方で。そう、早さは強さに勝てないのだ。恋愛の世界もそうだよね。
その理不尽に私は怒った!ような、ふてくされた……ような、泣いた( ; ; )ような、掴み掛かった💪ような。自分がその後どうしたか全く思い出せない。
あの瞬間は今でもはっきり覚えているし、それがとても嫌だったなぁと振り返ることもできる。だが感情を言葉にするにはまだ幼すぎる年齢は感覚しか残せず、思考を保つ手段がない。ゆえに後悔とか反省に結びつかないから子供は何度も同じ過ちを犯してしまう。まぁ2歳児が自責の念を感じてたら生きづらすぎるから、感覚で生きるべきだし、生きていいのが子供だ。
わたしも言葉から逃げて感覚で生きたい。税金、家賃、食費、彼女、結婚、貯金、仕事、出世、子供、それら全てを引っくるめた”大人”から逃げたい。
そう思っていた時期が僕にもありました。ただ言葉に縛られながら傷みつけられる楽しみもあるじゃないですか、ああ、ありませんかそうですか。なにより自由に思考して自由に行動できるというのは大人の特権だなとも思います。もし、保育園児の時に自由を手にしていたらきっと私はあの変身ベルトをトイザらスに買いに行ったことでしょう。それでは人に奪われる痛みや悔しさを学ばずに身体だけ大人らしくなっていたことでしょう。
考えろ、考えろと思考し続けている今が20年後、40年後の自分になにか残せていればいいなぁと過ごす今日この頃です。
【つるとんたん】3玉の罠【スクランブルスクエア】
つるとんたんをご存知だろうか。
あなたは、つるとんたんをご存知だろうか。
東京と大阪に多く店を構えるうどんチェーン店だ。丸亀やはなまるを代表するファストフード感覚のうどん屋とは一線を画しており、相手次第ではデートに使えそうなおしゃれなうどん屋さんである。(高校時代のデートは丸亀でしたけどね)
つるとんたんでやってはいけないことは3つある。
無銭飲食、迷惑行為
そして
生半可な気持ちで3玉を注文することだ。
TsuruTonTan UDON NOODLE Brasserie 渋谷にて
つるとんたんでは多彩なメニューもさることながら、全て大盛り無料。
それも大盛り3玉まで無料という太麺に負けじの太っ腹サービスが売りだ。
大盛り無料。この言葉に興奮を抑えられない雄も多いことだろう。その言葉によだれを垂れ流す雌も…いや女性を雌って表現するのはいろんな方向からいろんな意見が飛んできそうだから訂正します。もちろん女性の方も好きなものは好きなだけ食べたい人は多いことでしょう。
あれは雨降る平日渋谷にて。空腹で彷徨う上空150m、そこは渋谷の新しいランドマーク渋谷スクランブルウエア上階のレストランフロアだった。品があるシンプルな外観に立て掛けられた看板には強気な価格が小さく書かれている。そこに顔を近づけて0の数を数えているような男はここにくるべきではない。しかし、まぁ今から降りるのも面倒だしなにより外は大雨だ。
野口英世1人捧げて桜が何枚か手元に残ればいいのだが…そんなみみっちいニーズに応えてくれるお店がはたして……天空街にあった。
TsuruTonTan UDON NOODLE Brasserie 渋谷
読めん。一見おしゃれなビッフェバーかと思った。ああ、つるとんたん。どこかで聞いたことがある「つるとんたん」。入り口に置かれたメニューを開くと見慣れた「おうどん」の下にお手頃価格が並ぶ。にしても1人で入ることを躊躇ううどん屋さんって初めてだ。
「男は黙って大盛り」その精神が君を苦しめる
流石にワンコインとはいかずともスクランブルスクエアでここ以上に財布に優しくしてくれる店はなかろう。14時ごろでも店は大繁盛、列こそはないもの5分ほど待って入店した。席によっては高層階からの景色を眺めながらうどんを啜ることができるような。残念ながら内側のテーブル席だったが、店内はうどん屋と言われなければわからない、むしろうどん屋というのを隠そうとしているのではないかと勘繰ってしまうような装飾と音楽と客層。まぁこれがむしろ渋谷らしいか。
タブレットでメニューを見ていく。創作うどんが多いようだ。確かに創作うどん屋として店内を見渡せば、創作うどん屋っぽい。なんだ創作うどん屋っぽいって。
私はストレートに『玉子とじのおうどん』を注文することにした。
理由は¥880でたいへんお得だからだ(比較的)。
注文しようとタップした瞬間、画面に現れたその言葉を認知した脳の震えが高速で心にまで達した。
「3玉まで無料・・・!?」
これまで大盛りの文字とは何度も出会ってきた。しかし3玉とは。ありえない。だって3玉ってつまりそれは3人前で大盛りの域を悠に超えている。グラムで書かれていないから未知のボリュームだが880円で3人前と考えればかなりコスパがいい昼食では?スクランブルスクエアで3人前880円はむしろ格安では?てか男は黙って大盛りでは?
ここまでの逡巡はおよそ2秒。私の指が『3玉』に軽く触れた。
汗をかきながらすり鉢を1人啜る男像
写真だと伝わりにくいがとんでもないサイズ器で運ばれてきた。大きすぎて1人で面と向かうには恥ずかしいサイズ。一思いに麺を掬い上げようと箸を突っ込んでみたら重すぎて指先から手首までが痺れてしまった。久しぶりにこれやばいかもなぁと3本ずつちゅるちゅるして咀嚼する。
麺がもっちもち。小麦臭さが全くなくて透き通った味がする。玉子も3つくらい使ってるのかな?どこを掬っても麺に絡みついてくれて美味しい。
ちゅるちゅる、もっちもち、ごく、ちゅるちゅる、もちもち、ごく、ちゅるちゅる。幾度繰り返したことだろう、全く減らない。なんだこれ。腹の悲鳴を直前にして顎が鳴き始めてるんだが。みんなよく普通の表情で食えるなと思った、みなさん笑み溢れるお食事の時間を過ごしているようで、すり鉢に向かって1人フーフー唸っているお客様は私だけでした。そうよね、普通友達と来て取り分けて食べるよね。
顎が限界を迎えてからゴリ押し。顎先を天井に向けて食道のこじ開けることで喉越しが良いうどんを無理やり胃に落としていました。まさかこんなところでテレビチャンピョンで食事を”落とし込んでいた”菅原初代さんの姿に助けられるとは。ご冥福をお祈りします。
3玉を楽しみに待っている時は「なんだおしゃれなお酒もあるじゃん。食後に注文しようかな」とか戯言を呟いてましたが、そんな余裕はもちろんなく、お会計後にトイレにガンダしたのは言うまでもありません。ちなみにトイレは店を出てすぐの場所にあります。
腹八分。これアフォリズム。
お腹を埋めるという意味では880円で大満足。しかし「お腹いっぱいだー」には「美味しかったなー」もつなげたいですね。もう怖くてぶっちゃけ1人でいけない( ; ; )
胃袋に自信がない人は、おとなしく2玉あたりから始めましょう。
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